パチンコ依存症ブログも克服ブログも恥ずかしい 後悔が消えない
パチンコ人が今日も哭く。
パチンコ人は思う。
まやかしの世界と刺し違える時がきっとくる。
日本語に「刺し違える」という言葉がある。
「相討ち」 「道連れ」という言葉もある。
たとえ自分がやられることになっても、相手を必ず倒してやるという意味である。
日本のパチンコ依存症者たちが、
一気にパチンコ業界に闘いを挑むときが必ずくる。
その時には、意志ある依存症者たちは、差し違える気概をもって、
憎きパチンコを壊滅しなければならぬ。
道は遙かに遠いけれど、必ず夜明けはくる。
遠い 夜明け、日本人のパチンコ依存症を克服 第三部
パチンコ依存症撲滅・克服ブログの第三部の夜明けを宣言する。
未熟な自分、後悔の過去
「あの時、ああすれば良かった」という場面や決断が、
人生の中で何万回あっただろうか。
小学校の頃のあの時、高校時代のあの場所、というように、
私たちは、遠い過去のことでも、
「ああすれば良かった」という場面を鮮明に思い起こすことができる。
未熟な自分、後悔の過去である。
「あの時は、あれでよかった」
「ああいうふうにしかできなかった」という現実があって、
今の自分を納得させられるのであれば、何ということもないのだが、
多くの場合、「あの時の未熟な自分」が
心の中にずっと居座ってしまっているのだ。
普通人の場合、「ああすれば良かった」という後悔は、
多岐にわたっていて、その後悔が、今の自分を大人にしてきたと言えるが、
パチンコ依存症の場合、
「あの時ああすればよかった」「ああしなければ良かった」ということが、
ある一点、つまり、パチンコ人生にだけ集中しているのだ。
現実には、バラエティに富んだ人生だったはずなのだが、
依存症になってしまえば、パチンコ人生だけに後悔が集中してしまうのだ。
そういう意味でも、パチンコは、人生の軌跡を狂わせてしまうのだ。
恐ろしいことだ。
心もからだも、つまらない人生になっちまうよ。
あなたの町にパチンコ屋がいくつあるか知らないけど、順位をつけてご覧よ。
または、あなたが徘徊する(徘徊していた)パチンコ屋に、順位をつけてご覧よ。
その順位から、何が分かる?
その順位は、あなたがパチンコで勝てた順なんだよ。
負けたけど、キレイナなトイレだからいいとか
負けたけど、従業員の態度が洗練されているからいい、
とかいう基準じゃないはずだ。
「何でもいいから、勝てる(勝てた)順に、ランキングがついていくんだ。」
つまりね、パチンコっていうのは、お金だけの世界。
トイレのキレイさとか、従業員の態度とか関係ない世界。
お金が一番、お金以外関係ない世界。
人間の性格も、情感の豊かさも、やさしさも、学力も、
なんにも関係ない世界なんだ。
弱肉強食の世界に対抗する共存の考え方
二日間、ブログを更新できなかったら、とたんにランキングが下がった。
非情なものだ。
ここ10日間といもの、ウルトラ忙しくて、
睡眠時間も一日2~3時間しかとれなかった。
で、一昨日からとうとう体力がなくなって、
時間もなくてブログの更新を断念せざるを得なかった。
まだ、忙しさを脱却していないが、、少し時間がとれたので、
あわててブログを書いている。
さて、冒頭、「非情なものだ」と書いたが、ブログのランキングも非情なら、
依存症に対する世間の眼も非情なものだ。
昔、弱肉強食の世界に対抗する共存の考え方が脚光をあびたこともあったが、
今のこの世には、共存や共和が生きていける余地はない。
「どうしたら、他人より幸福になれるか」
「どうしたら、他人より儲けられるか」
「どうしたら、他人に負けないで生きていけるか」
・・・要するに、自分だけなのだ。
・・・要するに、この世は、パチンコ屋の中と同じなのだ。
もちろん、個人的には、違う生き方をしている人も多いが、
たくさんの人が、パチンコ人とスレスレなのではないのか。
今の私は、本気でそう思う。
パチンコのパの字もない世界
昨日は、朝までに、どうしてもやり切らなければならないことがあって、徹夜した。
でも、結局、間に合わなくて、ギリギリまで仕事をしていて、
今朝はブログを更新することができなかった。
おまけに、午前中からお祝い事があって、
眠い目をこすりながらその会に参加していたので、更新が今になってしまった。
寝不足の上、昼間からのアルコールのせいで、
頭痛がひどくて、さっきまで休んでいた。
バファリンをのんだら、頭痛が少しおさまってきたので、
今日のブログを今から書くことにする。
にらまれるブログ
思いがけない利益や幸運を望む心
パチンコ屋の中は、当たらないスーパーリーチだらけ。
うそつきスーパーリーチのオンパレード。
ただ騒がしいだけ。
こんなすごいリーチが来たんだから、今度は当たるだろうと思っていても、
最終場面でコロリとはずれる。
パチンコ屋のコンピューターに遊ばれ、
事務室(管制塔)で望遠カメラの画面を見ながら
ニヤついているかもしれない上級従業員にコケにされ、
挙げ句の果ては、サイフの中がスッテンテン。
まったく、よくあるパターン。
だけど、「よくある」ってことは、年がら年中ということ。
所々の少しの台を出ているように見せかけて、
あとのほとんどの台は、回収、回収。
パチンコ人は、今日も、涙の出ない泣きっ面。
小利口なパチンコ屋が、アホなパチンコ人に、
毒々しいウソのスーパーリーチをばらまきながら、今日も大忙し。
なんたって、師走。
師走は、儲け月、だまし月間だものね。
3万円のおせち料理
ここに「おせち料理」のカタログがある。
「おせち二段重 22,000円」 コレは高いのか安いのか?
答え、安い。
それでは、「おせち三段重 30,000円」
コレは高いのか安いのか?
答え、当然、安い。
毎日、パチンコ屋に行って、
ドブにお金を捨てるように負けてくる依存症のあなたにとって、
30,000円なんて、たいしたことはない金額だろう。
一日2万円負けて、20日間通えば、一月で40万円の負け。
一年間で、480万円の負け。
依存症のあなたにとって、おせち料理なんて、実に安いものだろう。
こんなステキな「お重」を家族にプレゼントしたら、
さぞかし、みんな大喜びだろうな。
でもね、あなたには、買えないのだ。
あなたにとって、実は安すぎるおせち料理を、
実際には買うことができないのだ。
あなたは、すべて負けてしまって、借金しか残っていないのだ。
500円の弁当だって、買えないのだ。
私が言うことは、当たっているでしょ?
パチンコは、あなたのすべてを壊す。
私は、ずっと、そう言い続けてきた。
なのにあなたは、まだパチンコを続けている。
愚かだ。
パチンコは、あなたの心を壊す。
あなたの経済を壊す。
あなたの家族の絆を壊す。
あなたの夢を壊す。
あなたの健康を壊す。
パチンコは、あなたのすべてを壊す。
ねえ、あなた。
あなたがパチンコ狂いをしなければ、
今度のお正月には、三万円もするおせち料理が、
あなたの家の食卓に並んでいたんだよ。
本当に、パチンコをやめな。
あなたが、パチンコで、バカみたいにドンドン負けてくれるから、
今度のお正月には、あのパチンコ屋の食卓に、
三万円もするおせち料理が、当たり前のように並ぶんだよ。
バカだな、あなた。
くやしいな、あなた。
パチンコなんて、やめな。
立候補しているみなさん、日本の依存症をどうするんですかあ?
(風邪引いて寝込んでいたので、更新が今になってしまいました。)
さて、『国の行方を問う』衆議院選挙が始まった。
経済・安保・原発・などなど幅広い争点があるという。
しかし、ねえ、立候補しているみなさん、
日本の依存症をどうするんですかあ?
パチンコ議員もたくさん立候補しているけど、
「パチンコ依存症」をどうするんですかあ?
経済や安保や原発も一生懸命取り組むけれど、
ギャンブル依存症にも全身全霊で取り組みますっていう議員さんは、
いないんですかあ? いるんですかあ?
この世には、大切なことがたくさんあるけど、
一点がよくなれば、例えば、経済がよくなれば、
他のこともそれにつれてよくなっていく、なんてことは、ウソ。
政治課題にして、予算をつけて取り組まない限り、
依存症なんて撲滅できないのだ。
もう一度言います。
今回の衆議院選に立候補しているみなさん、
「パチンコ依存症」をどうするんですかあ?
「ギャンブルをするドア」を開けますか?「ギャンブルをやめるためのドア」を開けますか?
パチンコ依存症者であるあなたは、
自分が依存症だなんて、これっぽっちも思っていない。
だから、依存症だなんて言われると、
極端に反応して、必要以上に強く否定する。
だが、問題は、
『必要以上に」強く否定するのは、なぜなのか?ということだ。
もしかしたら、あなたは、
自分が依存症傾向にあるのではないかと不安に感じ、
震えているのではないか?
暗くて、つらい中で、発覚をおびえているあなた。
それこそが、依存症なのではないか?
だったら、自分と、きちんと向き合えよ。
今が、その時だよ。
この国は、戦争で滅びるのではなく、パチンコで滅びる。
日本の冬、故郷の冬、我が家の冬。
依存症者の冬は、ただの冬。
依存症者には、季節を感じ、季節をめでる情感などない。
冬は、ただの暗い冬。
あなたの冬、あなた方の冬、私の冬。
嫌われ者の冬、恥ずかしい冬、パチンコ通いの冬。
伸びない冬、汚い冬、パチンコ人の冬。
寒いだけの冬、涙も涸れてしまっている冬、あなたの冬。
苦しい冬、だまされる冬、依存症者の冬。
人間の底辺をなめて、
人生の愚かさを吐き続けるだけの冬、依存症のあなたの冬。
冷たいイライラ、うしろめたい沈黙、背中を丸めるだけの冬、
重傷パチンコ人の冬。
冬が来ても、春が来ても、いいことは何もない。
希望を持たないパチンコ人。
希望を持てないパチンコ人。
この国は、戦争で滅びるのではなく、パチンコで滅びる。
すぐに、あなたの精神の中のパチンコを廃止せよ。
パチンコ依存症者の遺書
私たちがギャンブル問題の相談を始めたのは、
いわゆる1990年代のバブル経済とその崩壊の時代です。
それ以来、ほぼ毎週、私たちの精神保健相談に
ギャンブル依存症の方が来られるようになりました。
彼らの大多数は、どこにでもいる、
どちらかといえば仕事熱心な普通の中堅サラリーマンや時術者でした。
気持ちのやさしい青年やごく普通の主婦でした。
そして、その大多数は、ギャンブルをすぐにはやめられないと考えていました。
彼らは、俗に言う「深追い」をしすぎていたのです。
そして、「この前の失敗は深追いしすぎたからだ。
今度はいいところで切り上げる」と考えながらも、手を出していました。
多くの来所者は、頭のどこかでは「もうやめるべきだ」とわかっているのに、
ギャンブルのせいで多額の借金ができてしまい、
抜け出せない悪循環に陥っていました。
彼らの家族は、一様に疲れ切っていました。
というのも、ほとんどの家族が、相談に来る前の数年間のうちに、
数百万円の負債を整理していたのです。
さらに本人に「二度としない」と誓わせ、そして裏切られていました。
(田辺 等著『ギャンブル依存症』)
パチンコ、怖いぞ!
愛犬の検診の時、動物病院の先生から、愛犬の太りすぎについて、警告を受けた。
その先生からは、前から、
「このワンちゃんは太りすぎです。これ以上太ると心臓に負担がかかって危険です。」
と言われていたのだが、飼い主の意識が低くて重大に受け止めていなかったのだ。
で、その警告を受けて、ダイエットに専心することにした。
定期的な散歩ももちろんだが、問題は、食事である。
犬用のダイエットご飯を食べさせるのだ。
それも少量。その他は、水だけ。
当然、ワンコは、そのダイエットご飯を食べない。
今までと味も香りも違うから。
でも、結局は食べずにはいられなくなる。
なぜって、それしか食べる物がないから。
ただね、とても不思議なんだけど、しばらくすると、うまそうに食べるようになるんだわ。
そういうことって、人生にたくさんあるけど、
『嫌だけど、そうする以外ない。』
『そういう環境下になったら、知らない間に、順応していた。』
『むしろ、楽しくなった。』
これって、なんか、依存症にはまっていったり、依存症を脱却したりしていくプロセスに似てない?
ああ、この私は、なんでも依存症者に結びついて考えてしまうんだわ。
すべてを壊し、すべての純粋さを否定するもの。
お金を使わないで過ごせる能力。
お金をかけないで人生を楽しめる能力。
「ほんとうに必要なの?」
などと、ちょっと考えてから、サイフを開く能力。
「5万円キャッシュバック」などという宣伝文句にすぐ乗らない能力。
甘い誘いの裏には、必ず裏があるということを疑う能力。
パチンコ依存症者には、そういう能力がない。
幸せな人は、パチンコ屋に行かない。
街の片隅に立って、世の中を眺めると、
今日も音楽が流れ、人々が笑いながら歩いて行く。
もうすぐ、クリスマスだな。
年中行事の季節か。
クリスマスは嫌いではないが、クリスマス、クリスマスと言って
世の中が大騒ぎすると、気が滅入ってきてどうしようもなくなってくる。
クリスマスが近くなると、人々の思考回路が同じになってくる。
クリスマスツリー、クリスマスネオンサイン、クリスマスプレゼント、
クリスマスの過ごし方、クリスマス商戦、・・・
クリスマスによって日本人の話題が一定方向に誘導されてしまうのだ。
クリスマスが近づくと、日本中のあらゆる街が同じ思考を強制するのだ。
そして、人びとは、思考の自由を奪われ、同じことを考え、
同じことに喜びを感じ、意思のないロボットのようになっていく。
その状態は、パチンコ人がパチンコ屋に誘導されて、
射幸心をどんどん煽られ、ドーパミンの洪水の中に入れられて、
本人も気づかないうちに依存症状態になるのと、
実によく似ているではないか。
生きる。
眼閉づれど、 心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
石川啄木 「悲しき玩具」
病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし
おさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまは)の母の脛さすりつつ
吉野秀雄 「短歌百余章」
私が心ひかれる短歌は、なぜこんなに哀しいものばかりなのだろうか。
私の心が、哀しい短歌を選んでしまうのか、
それとも、哀しい短歌が私の胸の中に向こうから入り込んでくるのか。
この世の依存症(パチンコに限らず)者の胸の内に入り込めば、
きっと哀しくてせつない鼓動でいっぱいになっていることだろう。
依存症者の体内を流れる血の色も、リンパの色も、
きっと哀しみとせつなさが混じった地獄色をしているに違いない。
パチンコをやめて、ブログを始めよう。
依存症者が、パチンコと縁を切る。
パチンコと関係を絶つ
パチンコと絶縁する
パチンコと関係がなくなる
パチンコとつながりが切れる
パチンコと手を切る
パチンコと関係をなくす
パチンコと決裂する
依存症者が、パチンコと縁を切った後、或いは、縁を切りつつ
新しい興味を持つ
将棋や囲碁を始める
何か資格に挑戦する
花を育てる
野菜をつくる
小説を読む
歌の練習をする
新聞をスミからからスミまで毎日読む
日記を書く
料理に挑戦する
とにかく何かのサークルに入る
パチのお金を温泉めぐりに回す
小旅行をする
オシャレをする
家族と長い時間を過ごす
家の掃除をする
図書館で過ごす
釣りをする
映画を見る
健康法をマスターする
デジカメを持って散歩する
依存症者が、パチンコと縁が切れたら、
依存症者が、パチンコと縁が切れたら、ブログを始めよう。
だけど、そのブログは、「パチンコ依存症に関するブログ」では、ダメ。
そんなブログは、書かなくてよい。
パチンコ依存症であるあなたは、
「まったく新しい世界を見つめるブログ」を始めるといい。
まだまだ、死ねないで、生きるのだから、
もう、グジュグジュしないで、光の源をさがしに行こう。
川に逆らって咲く曼珠沙華
川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄へ行きたし今日も
-寺山修司「田園に死す」-
別名、彼岸花とも死人花とも幽霊花、捨子花とも言う。
鮮やかな赤色の花だけれど、「死」の匂いがする。
『真っ赤な曼珠沙華が川の流れに逆らい、川上に向かって、
あたかも地獄へいざなうように咲きついでいる』という意味だ。
この短歌に接すると、
精神的肉体的に、生死のギリギリのところで生きる痛さを、
花そのもの(曼珠沙華)が発しているように思えてくる。
この曼珠沙華は、植物ではなく、人間のようにも見える。
私にとって、この曼珠沙華は、「行ってはいけないパチンコ屋」だったり、
「触れてはいけないパチンコ情報」であったりする。
高貴な短歌の世界に、パチンコなんぞという「俗的」で「ゲス」な世界を
あてはめてしまって申し訳ないが、
パチンコ依存症者の持つ現実の地獄は、
正真正銘の無間地獄なのだから
この短歌に寄り添って記事を書いても不思議ではないだろうな。
雨の日には雨の中を 風の日には風の中を 試練の日には試練の中を
【依存症者のつぶやき】
人間は平等だが、現実の人間は平等ではない。
人間は、誰でも幸福になる権利があるが、
努力しても幸福になれるとは限らない。
現代日本には、階級はないが、階層はある。そのとおりである。
人間を動かすものは、現実的には、金銭である。残念ながら感動ではない。
資本を持つ小利口な者が、豊かな生活を保障される。
時は流れていく。
依存症者が、どれほど哀しさの中にいようが、
病人がどれほどの痛みの中にいようが、
時は流れ、朝が来て、工場の機械は動き出す。
あなたしかいない、と言われても、
あなたがいなくなれば、あなた以外の優秀な人間がそのポジションにつく。
そして、あなたは忘れ去られる。
人が人を下に見る、その根底には、健康と金と成功がある。
この世には、支配する者と支配される者しかいない。
・・・ここまで書いて、ヘドが出た。・・・
依存症者だって人間だよね?
裏切られても裏切られても、信じるということ
「裏切られても裏切られても、
彼が依存症から回復することを信じて頑張ります。」
そう言ってパチンコ依存症克服と戦っている相談員がいる。
「もう、あいつはダメだ。いくら言っても分からん。
完全な中毒だよあいつを相手にするんだったら、
もっと見込みのある依存症者を相手にした方がいいよ。」
そう言って、依存症者を選別する相談員がいる。
どちらが正しいか?
理想論では前者が正しい。
しかし、現実に、毎日毎日たくさんの依存症者に直面せざるを得ない場合、
どうすればいいんだろう?
人は、状況によって、とれる処置が違ってくるけれど、
私たちは、
「裏切られても裏切られても、信じるということ」を精神の根っこにすえながら、
今ある事実に、精いっぱい体当たりしていく気概を忘れてはならない。
日陰だけを選んで歩いている依存症パチンコ人の哀れさ。
朝早く町に出ると、ウォーキングしている人たちをがたくさんいることに気づく。
この人たちは、健全に前向きに生きている人たちに違いない。
個々の細かな目標はどうであれ、自らの健康を考えて、せっせと歩く。
向上心に満ちた人である。
一方、パチンコ人はどうかと言うと、
パチンコ人は当然、ウォーキングなんてしない。
日がなタバコの煙の中で過ごしているパチンコ人には、
具体的な健康増進目標などない。
本当に健康に気をつかう人たちは、
パチンコ屋のタバコの煙や極端に騒々しい騒音に耐えられない。
自らを律して、ウォーキングにいそしむ人たちを見ていると、
人間の生き方の多様さに驚くと同時に、
日陰だけを選んで歩いている依存症パチンコ人の哀れさが、
みに染みてきてやるせなくなってくる。
乾いた想像力
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パチンコ人の想像力は、乾いているから、打撃に弱い。
しなやかさがないから自在に動き回って新しいやり方を発見したり、
創意工夫した生き方をしたりできない。
乾いた想像力しかないから、
打撃を受けると粉々にくだけてしまうのだ。
あなたを、あなたの中で支えるものは、危機感と憧れなんだよ。
体重を減らしたいなら、炭水化物を抜けばいい。
パチンコ依存症を改善させたいのなら、パチンコ屋に行かなければいい。
実に、単純明快だ。
だけど、あなたに、それができるか?
幸せになろうよ。人には、誰でも幸せになる権利があるんだから。
あなたの道。光の中に行く道。
依存症者には、居場所がない。
人並みの生活もない。
いつも他人の視線を気にしながら、胸先に鉛の塊を抱えて生きている。
依存症者に笑顔はない。
たまに笑っているように見えることもあるが、それは、世間づきあいの笑い。
いつも苦虫をかみつぶしているような顔しかない。
依存症者は、パチ屋に行くことだけが楽しみだが、
ほとんどの依存症者には、自分のお金がない。
パチ屋に行くための資金は、消費者金融で借りたり、
食費だったり、光熱費だったりすることが多々ある。
だけど、依存症者には、夢がある。
「いつか、パーッと儲けてやる。」
そういう夢がある。
でも、どこまで行っても、「パーッと儲けてやる。」という場面には出会わない。
結局、依存症者は、その夢が、幻想だということを理解できない。
依存症者が、自分が依存症だということを認めても、
それだけで、人並みに生きられるようになれるわけではない。
認めたところから、また新しい苦悩が始まる。
だだし、その新しい苦悩は、「幻想ではない希望の世界」に向かっている。
狂ったパチンコ人にも、少しくらいの幸あれ。
今日もまた、パチンコ人が、夜半に暗い夢を見て、暗い目覚めを迎える。
びっしょりかいた寝汗を拭き取り、風呂に飛び込む。
昨夜、寝る前に風呂の用意をしておいて正解だった。
アゴまで浴湯につかると、少し心が清浄になってくる。(気がする。)
どれもこれもイヤな夢だった。
都道府県ごとに依存症者が集められて、
強制的な共同生活をさせられる夢だった。
世間に迷惑をかけるから、強制的に連行して隔離する、というのだ。
その隔離する場所を、「依存症村」と呼ぶのだ。
そこは、カオス(混沌状態)。
ぐちゃぐちゃ、混乱、猜疑心、自己弁明。
依存症者は生きているだけで地獄なのに、
何者かに強制的に集められ、
「心の健全化、生活の健全化を図る。」
「強制共同労働で借金の返済金をつくり出す。」というのだ。
「依存症者の強制的隔離場所」である。
これは、どこかの国や旧日本国の悪しき時代に似てないか。
夢のことを思い出していると、急に具合が悪くなってきた。
急いで浴槽の外に出て、正常な脈拍に戻るまで座っていた。