パチンコ依存症者の遺書
私たちがギャンブル問題の相談を始めたのは、
いわゆる1990年代のバブル経済とその崩壊の時代です。
それ以来、ほぼ毎週、私たちの精神保健相談に
ギャンブル依存症の方が来られるようになりました。
彼らの大多数は、どこにでもいる、
どちらかといえば仕事熱心な普通の中堅サラリーマンや時術者でした。
気持ちのやさしい青年やごく普通の主婦でした。
そして、その大多数は、ギャンブルをすぐにはやめられないと考えていました。
彼らは、俗に言う「深追い」をしすぎていたのです。
そして、「この前の失敗は深追いしすぎたからだ。
今度はいいところで切り上げる」と考えながらも、手を出していました。
多くの来所者は、頭のどこかでは「もうやめるべきだ」とわかっているのに、
ギャンブルのせいで多額の借金ができてしまい、
抜け出せない悪循環に陥っていました。
彼らの家族は、一様に疲れ切っていました。
というのも、ほとんどの家族が、相談に来る前の数年間のうちに、
数百万円の負債を整理していたのです。
さらに本人に「二度としない」と誓わせ、そして裏切られていました。
(田辺 等著『ギャンブル依存症』)
パチンコ、怖いぞ!
愛犬の検診の時、動物病院の先生から、愛犬の太りすぎについて、警告を受けた。
その先生からは、前から、
「このワンちゃんは太りすぎです。これ以上太ると心臓に負担がかかって危険です。」
と言われていたのだが、飼い主の意識が低くて重大に受け止めていなかったのだ。
で、その警告を受けて、ダイエットに専心することにした。
定期的な散歩ももちろんだが、問題は、食事である。
犬用のダイエットご飯を食べさせるのだ。
それも少量。その他は、水だけ。
当然、ワンコは、そのダイエットご飯を食べない。
今までと味も香りも違うから。
でも、結局は食べずにはいられなくなる。
なぜって、それしか食べる物がないから。
ただね、とても不思議なんだけど、しばらくすると、うまそうに食べるようになるんだわ。
そういうことって、人生にたくさんあるけど、
『嫌だけど、そうする以外ない。』
『そういう環境下になったら、知らない間に、順応していた。』
『むしろ、楽しくなった。』
これって、なんか、依存症にはまっていったり、依存症を脱却したりしていくプロセスに似てない?
ああ、この私は、なんでも依存症者に結びついて考えてしまうんだわ。
すべてを壊し、すべての純粋さを否定するもの。
お金を使わないで過ごせる能力。
お金をかけないで人生を楽しめる能力。
「ほんとうに必要なの?」
などと、ちょっと考えてから、サイフを開く能力。
「5万円キャッシュバック」などという宣伝文句にすぐ乗らない能力。
甘い誘いの裏には、必ず裏があるということを疑う能力。
パチンコ依存症者には、そういう能力がない。
幸せな人は、パチンコ屋に行かない。
街の片隅に立って、世の中を眺めると、
今日も音楽が流れ、人々が笑いながら歩いて行く。
もうすぐ、クリスマスだな。
年中行事の季節か。
クリスマスは嫌いではないが、クリスマス、クリスマスと言って
世の中が大騒ぎすると、気が滅入ってきてどうしようもなくなってくる。
クリスマスが近くなると、人々の思考回路が同じになってくる。
クリスマスツリー、クリスマスネオンサイン、クリスマスプレゼント、
クリスマスの過ごし方、クリスマス商戦、・・・
クリスマスによって日本人の話題が一定方向に誘導されてしまうのだ。
クリスマスが近づくと、日本中のあらゆる街が同じ思考を強制するのだ。
そして、人びとは、思考の自由を奪われ、同じことを考え、
同じことに喜びを感じ、意思のないロボットのようになっていく。
その状態は、パチンコ人がパチンコ屋に誘導されて、
射幸心をどんどん煽られ、ドーパミンの洪水の中に入れられて、
本人も気づかないうちに依存症状態になるのと、
実によく似ているではないか。
生きる。
眼閉づれど、 心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
石川啄木 「悲しき玩具」
病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし
おさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまは)の母の脛さすりつつ
吉野秀雄 「短歌百余章」
私が心ひかれる短歌は、なぜこんなに哀しいものばかりなのだろうか。
私の心が、哀しい短歌を選んでしまうのか、
それとも、哀しい短歌が私の胸の中に向こうから入り込んでくるのか。
この世の依存症(パチンコに限らず)者の胸の内に入り込めば、
きっと哀しくてせつない鼓動でいっぱいになっていることだろう。
依存症者の体内を流れる血の色も、リンパの色も、
きっと哀しみとせつなさが混じった地獄色をしているに違いない。
パチンコをやめて、ブログを始めよう。
依存症者が、パチンコと縁を切る。
パチンコと関係を絶つ
パチンコと絶縁する
パチンコと関係がなくなる
パチンコとつながりが切れる
パチンコと手を切る
パチンコと関係をなくす
パチンコと決裂する
依存症者が、パチンコと縁を切った後、或いは、縁を切りつつ
新しい興味を持つ
将棋や囲碁を始める
何か資格に挑戦する
花を育てる
野菜をつくる
小説を読む
歌の練習をする
新聞をスミからからスミまで毎日読む
日記を書く
料理に挑戦する
とにかく何かのサークルに入る
パチのお金を温泉めぐりに回す
小旅行をする
オシャレをする
家族と長い時間を過ごす
家の掃除をする
図書館で過ごす
釣りをする
映画を見る
健康法をマスターする
デジカメを持って散歩する
依存症者が、パチンコと縁が切れたら、
依存症者が、パチンコと縁が切れたら、ブログを始めよう。
だけど、そのブログは、「パチンコ依存症に関するブログ」では、ダメ。
そんなブログは、書かなくてよい。
パチンコ依存症であるあなたは、
「まったく新しい世界を見つめるブログ」を始めるといい。
まだまだ、死ねないで、生きるのだから、
もう、グジュグジュしないで、光の源をさがしに行こう。
川に逆らって咲く曼珠沙華
川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄へ行きたし今日も
-寺山修司「田園に死す」-
別名、彼岸花とも死人花とも幽霊花、捨子花とも言う。
鮮やかな赤色の花だけれど、「死」の匂いがする。
『真っ赤な曼珠沙華が川の流れに逆らい、川上に向かって、
あたかも地獄へいざなうように咲きついでいる』という意味だ。
この短歌に接すると、
精神的肉体的に、生死のギリギリのところで生きる痛さを、
花そのもの(曼珠沙華)が発しているように思えてくる。
この曼珠沙華は、植物ではなく、人間のようにも見える。
私にとって、この曼珠沙華は、「行ってはいけないパチンコ屋」だったり、
「触れてはいけないパチンコ情報」であったりする。
高貴な短歌の世界に、パチンコなんぞという「俗的」で「ゲス」な世界を
あてはめてしまって申し訳ないが、
パチンコ依存症者の持つ現実の地獄は、
正真正銘の無間地獄なのだから
この短歌に寄り添って記事を書いても不思議ではないだろうな。
雨の日には雨の中を 風の日には風の中を 試練の日には試練の中を
【依存症者のつぶやき】
人間は平等だが、現実の人間は平等ではない。
人間は、誰でも幸福になる権利があるが、
努力しても幸福になれるとは限らない。
現代日本には、階級はないが、階層はある。そのとおりである。
人間を動かすものは、現実的には、金銭である。残念ながら感動ではない。
資本を持つ小利口な者が、豊かな生活を保障される。
時は流れていく。
依存症者が、どれほど哀しさの中にいようが、
病人がどれほどの痛みの中にいようが、
時は流れ、朝が来て、工場の機械は動き出す。
あなたしかいない、と言われても、
あなたがいなくなれば、あなた以外の優秀な人間がそのポジションにつく。
そして、あなたは忘れ去られる。
人が人を下に見る、その根底には、健康と金と成功がある。
この世には、支配する者と支配される者しかいない。
・・・ここまで書いて、ヘドが出た。・・・
依存症者だって人間だよね?
裏切られても裏切られても、信じるということ
「裏切られても裏切られても、
彼が依存症から回復することを信じて頑張ります。」
そう言ってパチンコ依存症克服と戦っている相談員がいる。
「もう、あいつはダメだ。いくら言っても分からん。
完全な中毒だよあいつを相手にするんだったら、
もっと見込みのある依存症者を相手にした方がいいよ。」
そう言って、依存症者を選別する相談員がいる。
どちらが正しいか?
理想論では前者が正しい。
しかし、現実に、毎日毎日たくさんの依存症者に直面せざるを得ない場合、
どうすればいいんだろう?
人は、状況によって、とれる処置が違ってくるけれど、
私たちは、
「裏切られても裏切られても、信じるということ」を精神の根っこにすえながら、
今ある事実に、精いっぱい体当たりしていく気概を忘れてはならない。
日陰だけを選んで歩いている依存症パチンコ人の哀れさ。
朝早く町に出ると、ウォーキングしている人たちをがたくさんいることに気づく。
この人たちは、健全に前向きに生きている人たちに違いない。
個々の細かな目標はどうであれ、自らの健康を考えて、せっせと歩く。
向上心に満ちた人である。
一方、パチンコ人はどうかと言うと、
パチンコ人は当然、ウォーキングなんてしない。
日がなタバコの煙の中で過ごしているパチンコ人には、
具体的な健康増進目標などない。
本当に健康に気をつかう人たちは、
パチンコ屋のタバコの煙や極端に騒々しい騒音に耐えられない。
自らを律して、ウォーキングにいそしむ人たちを見ていると、
人間の生き方の多様さに驚くと同時に、
日陰だけを選んで歩いている依存症パチンコ人の哀れさが、
みに染みてきてやるせなくなってくる。
乾いた想像力
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パチンコ人の想像力は、乾いているから、打撃に弱い。
しなやかさがないから自在に動き回って新しいやり方を発見したり、
創意工夫した生き方をしたりできない。
乾いた想像力しかないから、
打撃を受けると粉々にくだけてしまうのだ。
あなたを、あなたの中で支えるものは、危機感と憧れなんだよ。
体重を減らしたいなら、炭水化物を抜けばいい。
パチンコ依存症を改善させたいのなら、パチンコ屋に行かなければいい。
実に、単純明快だ。
だけど、あなたに、それができるか?
幸せになろうよ。人には、誰でも幸せになる権利があるんだから。
あなたの道。光の中に行く道。
依存症者には、居場所がない。
人並みの生活もない。
いつも他人の視線を気にしながら、胸先に鉛の塊を抱えて生きている。
依存症者に笑顔はない。
たまに笑っているように見えることもあるが、それは、世間づきあいの笑い。
いつも苦虫をかみつぶしているような顔しかない。
依存症者は、パチ屋に行くことだけが楽しみだが、
ほとんどの依存症者には、自分のお金がない。
パチ屋に行くための資金は、消費者金融で借りたり、
食費だったり、光熱費だったりすることが多々ある。
だけど、依存症者には、夢がある。
「いつか、パーッと儲けてやる。」
そういう夢がある。
でも、どこまで行っても、「パーッと儲けてやる。」という場面には出会わない。
結局、依存症者は、その夢が、幻想だということを理解できない。
依存症者が、自分が依存症だということを認めても、
それだけで、人並みに生きられるようになれるわけではない。
認めたところから、また新しい苦悩が始まる。
だだし、その新しい苦悩は、「幻想ではない希望の世界」に向かっている。
狂ったパチンコ人にも、少しくらいの幸あれ。
今日もまた、パチンコ人が、夜半に暗い夢を見て、暗い目覚めを迎える。
びっしょりかいた寝汗を拭き取り、風呂に飛び込む。
昨夜、寝る前に風呂の用意をしておいて正解だった。
アゴまで浴湯につかると、少し心が清浄になってくる。(気がする。)
どれもこれもイヤな夢だった。
都道府県ごとに依存症者が集められて、
強制的な共同生活をさせられる夢だった。
世間に迷惑をかけるから、強制的に連行して隔離する、というのだ。
その隔離する場所を、「依存症村」と呼ぶのだ。
そこは、カオス(混沌状態)。
ぐちゃぐちゃ、混乱、猜疑心、自己弁明。
依存症者は生きているだけで地獄なのに、
何者かに強制的に集められ、
「心の健全化、生活の健全化を図る。」
「強制共同労働で借金の返済金をつくり出す。」というのだ。
「依存症者の強制的隔離場所」である。
これは、どこかの国や旧日本国の悪しき時代に似てないか。
夢のことを思い出していると、急に具合が悪くなってきた。
急いで浴槽の外に出て、正常な脈拍に戻るまで座っていた。
日本人のパチンコ依存症者、560万人。
パチンコ菌は、あなたには見えないけれど、今もあなたの脳みそと心を攻撃している。
後ろを向いたら、また地獄が見えた。
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ずっとメールチェックを怠っていた。
先日、と言っても10月29日にSo-netブログ事務局から、次のようなメールが届いていた。
今日は、もう11月13日だから、半月近く経っているが、
昨日現在ではどうなのか、知りたくなった。
「日本人のパチンコ依存症を克服:経験から学ぶ最速生活」から注目記事をピックアップ! | |
過去3カ月間でアクセス数の多い記事ベスト3 | |
1位 | パチンコと地獄といのち |
2位 | パチンコの幻想を捨てる。勝てるという幻想を捨てる。 |
3位 | パチンコに背を向けて、光の中を歩く。 |
神よ、地獄をつくる彼らを撃て。
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画集がある。
日本画で、タイトルは、中島千波の桜屏風(びょうぶ)。
どのページも満開の桜である。
満開の花びら一つ一つがていねいに描き込まれていて、
思わず、花びらの数を数えだしてしまうほどだ。
桜が私の方をめざして画布から飛び出してくるのではない。
桜が画布の枠上から降ってくるのだ。
絵が生きているから、絵がじっとしていないのだ。
中島千波というこの画家は、満開の桜の下で満開の桜を描く。
きっとスゴイ重圧と、すごい喜びなんだろう。
前よりも多くの気づきを持って描きたい、描かなければならぬ、という重圧。
描くことで、重圧から精神を解放していく喜び。
この世には、こんな絵があり、こんな絵を描く画家もいるのに、
ただパチンコを打つことしかノウがなく、
ただただ、人生の無駄づかいをして没していくパチンコ人たちもいる。
芸術とパチンコを比べる私も笑われそうだが、
パチンコ依存症者をずっと見てきた私は、
素晴らしい「もの」や素晴らしい「こと」に出会えば出会うほど、
哀しくて愚かなパチンコ依存症者が思い出されてきて
どうしようもなくなってしまうのだ。
今日もパチンコ打ちに精を出すあなた、
パチンコのために今日も絶望に向かうあなた。
あなたには、満開の桜をみて心をふるわす人生が残っているか?
美しい出来事に涙することができる素直な心が残っているか?
ケバくてあさましくてドギツイ光線や、
バカでかい粗暴な音や
デタラメに動き回る玉ばかりに気を盗まれてしまった、あなた。
私は哀しい、くやしい。
目の前にこんなに美しい「桜屏風」の世界があるのに、
あなたの、あなたの、あなたの依存症を思い出してしまう私の哀しさ。
美しいものを前にしても、「この世の生き地獄」を思い出してしまう私。
ああ、あなたは誰?
私は何?
何でパチンコが許されるの?
何で、パチンコ業界や利得者たちは、笑って暮らしてもいいの?
神よ、地獄をつくる彼らを撃て。
私たちの望むものは
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顔にシミがある。
手の甲にもシミがある。
首筋には脂肪のつぶつぶがあって、
腹がたるんでる。
足の爪が白くひび割れてきた。
尻の肉が落ちてきた。
筋肉に張りがない。
首の回りのシワがひどい。
笑い顔がシワだらけ。
目がにごっている。
おまけに、背中も丸い。
裸の身体のあちこちにイボや汚い塊が数知れず。
足で歩かず、腰で歩く「ふらふら歩き」で、すぐにつまづく。
身体のいたる所の「しまり」がない。
乾燥した肌がざらざら。
頬がこけてきた。
なんか、パチンコ人の心みたいだね。
ねえ、こんなになったら、どうする?
頭を切り開いて、光の管を入れてみな。
心の奥にすむパチンコ毒に光の矢を射ってみな。
身体全体を光の箱に入れて、光の海に飛びだそう。
何をしてもいいから、どうやってもいいから。
依存症の世界から脱出しなよ。
明るい空の下で、おいしい物を食べようよ。
キレイな空気を吸って、楽しい話をしよう。
そうして、汚い過去を捨てよう。
パチンコで輝く人なんていない。
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仕事が終わらなくて、ずっと起きていた。
自分の体力と睡眠時間の調整さえできれば、夜はいい。
夜は、自由だ。
みんな眠りにおちているから、家の内も外も静寂な空気がみちている。
静かな中で自分の魂が自由に動き回っているのが分かる。
明け方、気分転換に家の外に出てみる。
すぐそこまで来ている冬の先兵が、ゾクッとする冷気を運んでくる。
まだまだ終わりそうもない仕事のことが、脳裏を走る。
「期限に間に合わせるさ。」
そう思って、頬を両手でたたきながら、自分で自分を元気づける。
もうすぐ、新しい一日が始まる。
「いいことあるといいな。」
そう思って深呼吸を2回する。
自分の汚い過去が、どこかに行きますように。
魂が喜ぶような何かが始まりますように。
光の中を歩いていけますように。
不景気なのに、あっちもこっちも依存症だらけ。
勝てはせぬ
だが負けない
戦さはできる
(安部龍太郎)
11月号新潮社「波」の表紙に書いてある言葉である。
私は、この言葉を読んだ瞬間に、
治りはせぬ
だが負けない
回復はできる
そう読みかえてしまう。
あなたも、きっとそう読みかえるだろう。
以前、似たようなタイトルで記事を書いたことがあった。
↓↓
努力している間は、負けない。闘っている間は、希望のもとにある。
そんなこともあって、すーっと、読みかえたのだろうか。
それにしても、私たちの日本は、究極の崩壊に近いな、と思う。
右を向いても左を向いても高齢者ばかり。
子どもの数は極端に少なくて、
休みの日でも道を歩いている子どもなんて、ほとんどいない。
貧富の差はどんどん拡がっていくし、働き手も減っていく。
どうなるんだろう、日本は。
大和民族だ、単一民族だなんて言っても、
労働人口がどんどん減っていくから、
東南アジアをはじめとする様々な国から出稼ぎにきてもらって、
産業を支えないと、今の日本の産業を維持できないんだわ。
あと10年もすれば、けっこう多国籍国家みたいになるんだろう。
どうなるんだろう、日本は。
それに、不景気なのに、パチンコ屋ばかりが儲かって、
あっちもこっちも依存症だらけ。
ほんとに、ホントに、どうなるんだろうか、私たちの日本は。
叫んでも声がでない。泣いても涙がでない。
3つの依存症の町の住人。
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パチンコ人の心の中にある波。
引いては寄せて来る波。
何の変哲もない波のようにも見える。
でもね、よく見てごらん。
その波は、依存症の波だよ。
パチンコをしたい、パチンコをやめられないという感情の波。
引いては寄せてくる「感情の繰り返しの波」。
パチンコをしたい、否、パチンコをやめるぞ。
でも、やっぱりパチンコをしたい、否、否、パチンコをしてはいけない。
だけど、少しだけならいいだろう、
ほんとにやめたい時には、すぐやめられるんだから。
否、否、否、人生が壊れるぞ。
だけど、だけど、だけど・・・・・・。
依存症の波。コントロールできない波。
パチンコ人の世界は、コントロールのきかない波の世界。
そして、あなたはその世界の住人。
あなたはその世界の住人になりたいと、
本当は、これっぽっちも思ってないのにね。
だけど、現実は、押しも押されもしない立派な住人。
いやだねえ。
適当なところで切り上げられない。
意志の力ではどうにもならず、やめようと決心しても止まらない。
それをコントロール障害と言う。
パチンコ依存症という窓から日本を見ると・・・。
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依存症の治療的な対応を考える上で、
もう一つ検討しておくことがあります。
それは、
そもそも依存症になりやすい人、なりにくい人はいるのか、ということです。
多くの人がもつ疑問です。
一体全体、パチンコに数百万も費やすなんて、どんな人なのでしょう。
家庭の主婦で、離婚されてもパチンコがやめられないなんて、
どんな人なのでしょう。
(田辺等:他の精神疾患とギャンブル依存症との関わり)
(この文の後、氏は、人格障害、うつ病、躁うつ病、アルコール依存を取り上げている。)
これは、いろいろな意味で難しい問題である。
ちょっと間違うと、差別につながってしまう。
大げさではなく、
ヒットラーのユダヤ人政策と同じ構造を持ってしまう危険があるのだ。
(だから、これは、今の私には手に負えない。)
そういう問題の立て方もある、ということだけで、疑問を閉じる。
人生を健康に生き直す。それが、回復するということ。
重度のパチンコ依存症者でも、
「今だけパチンコをやめる」「今日だけしない」ということはできる。
だけど、
「今日も明日も」「しばらくの間」となると、とたんにできなくなる。
依存症克服で一番大事で、一番難しいこと、
それは、「やめることを継続する」ということなのだ。
パチンコ依存症(ギャンブル依存症)は、病的賭博という病気だから、
治療すれば完治すると思われがちだが、
パチンコ(ギャンブル)依存症は、残念ながら、完治することはない。
たとえ、何年もやめていても、一度でもパチンコを打ってしまったら、
以前の状態に戻ってしまうのだ。(再発)
これは、ギャンブルに限らず、アルコール依存症もニコチン依存症も
覚醒剤依存症も、すべてに共通している。
しかし、希望はある。
ギャンブル依存症は、「治らないが、回復する」(田辺等)ことはできるのだ。
通常の病気のように治るのではなく、
「生き方が変わり、依存しているものから脱却して、
健康な生活を送ることができるようになる」のだ。
それを、「回復する」という。
ギャンブル(パチンコ)をやめるということは、
回復のはじまりなのだ。
認めることが、戦いのはじまり。
「今のあなたのパチンコ依存度は、どのくらい強い依存度ですか?」
その質問に、あなたは、どう答えるの?
昨日のブログに載せた依存症20のチェックに、
あなたは、いくつ当てはまったの?
あなたが、『パチンコに病的なほどのめりこんでしまっている』かどうか、
あるいは、
『このままでは、病的と言われるほどのパチンカーになってしまう』
かどうかということが、問題なのだ。
えっと、あなた、今、「自分は、病的じゃないよ」って思ったでしょ?
それが、問題なの。
あなたが、今のあなたのパチンコ依存度を、きちんと意識すること。
そこからしか「依存症との戦い」を始めることはできないのだ。
自分で自分のパチンコ依存度を、軽くみてはいけません。
立ち直るための力。続けるための力。
ずっと依存症克服・撲滅のメッセージを書いてきた。
そのメッセージが、今日で101回になる。
何年もブログ記事を書いている人からみたら、
大した数の記事ではないだろう。
しかし、私にとっては、たかだか101回と言えども、
正直なところ苦しさの連続であった。
メッセージの数が増えれば増えるほど、
自分自身が暗くなっていくのだ。
この世には、カウンセラーとかセラピストとかを仕事にして、
毎日毎日つらくて暗いクライアントに接している人がいるけれど、
彼らは、どうやって自分自身の心の平安を保っているのだろう。
ほんとうなら、101回目になったのだから、
もっと喜ぶべきなのだろうが、
ストレートに喜べない自分がいる。
けれど、
力をためて、拳を握って、心をやさしくして、もうしばらく書き続けていこうと思う。
自分のブログから、元気を少しもらえたから、もう少しがんばれるかな。
借金をして勝てるギャンブルはない。
読んでいると、読み手が苦しくなってくる言葉がある。
読んでいくと、胸先が詰まってきて、思わず目を背けたくなるのだ。
依存症者や準依存症者にとって、
事実を指摘されるほど苦しいことはない。
田辺等氏の「ギャンブル依存症」という本の表紙と帯には、
次のような言葉が載っている。
『いつでもやめられると思う。
いつでも引き返せると踏む。
そうして深みにはまって、
依存症者はいつか家族の絆も賭けはじめる。
これは病気なのだ。』
仕事からの逃避、
多額の借金、
度重なるウソ、
家庭の崩壊、
そして人生の転落。』
彼は、たった、これだけの言葉で、
依存症の本質とギャンブルの魔力を言い当てている。
依存症者や準依存症者は、
たったこれだけのことを指摘されただけで、
胸先が詰まり、指先が震え、呼吸が不安定になってくるのだ。
たかがパチンコ、されどパチンコなのだ。
私たちの日本の街なかには、パチンコ屋が乱立し、
ふつうに依存症者になってしまう環境が、
当たり前のように用意されている。
たとえ、今のあなたが、依存症でなくても、
あなたの家族や友人が、
依存症になるかも知れないという危機意識を持ち続けることは、
とても大切なことなのだ。
依存症地獄から逃げろ。ずっとずっと逃げていけ。
旅に出た。
どこに行くというあてもなく、車を走らせる。
まわりの景色が、車の速度にあわせて、次々と変わっていく。
色濃い秋の色をいっぱいにした景色。
人通りのほとんどない町の灰色の景色。
カラフルな服装をした元気色の景色。
・・・・・。
自分は、何のために旅に出たのだろう。
答えの出ないまま、日が暮れていく。
飛び込んだ宿屋で、一人、杯を傾けながら、
ぼーっとして壁のあたりを眺めている自分に気づく。
自分一人だけの空間。
立ち上がって、酒でほてった身体に冷気をあてようと窓を開ける。
何もない。
何も見えない。
冷たい空気だけ。
夜半に目が覚める。
風呂に行くか。
薄明かりのライトの下で、首まで浸かって、ため息をつく。
ふと見ると、お湯の中に何かが浮かんでいる。
何だろう。
よく見ると、私の身体の芯から出てきている。
私だけに見える、何か。